1945年(昭和20年)6月19日に起きた福岡大空襲では、奈良屋校区に次いで多くの死傷者を出したのが圓應寺のある簀子校区でした。簀子校区では当時、1885戸のうち1700戸が焼失し、
176人が犠牲になったとされています。
圓應寺も例外ではありませんでした。伽藍、本尊、寺宝は業火になめつくされ、墓石までもがその熱で粉砕されました。照福院殿光姫君と官兵衛如水公の墓石も堂宇のすぐそばであったため
高熱で礫となってしまいました。圓應寺は地域では最後の最後に焼け、一切を焼失したそうです。
阿鼻叫喚の最中を先代寺庭フミは幼子であった35世を連れ、圓應寺の『寺宝中の寺宝』を抱えて阿弥陀如来に念じつつ防空壕に避難していたのでした。
戦禍ですべてを失った圓應寺でしたが、いくつか奇跡的に失わずに済んだものがありました。それは死にもの狂いで寺庭が守り抜いた圓應寺の歴史ともいうべき『寺宝中の寺宝』である「過去帳」と
周囲に植わっていた槇の木に護られた格好で弁財天堂、そして寺庭と35世の命でした。
空襲が終わり前日とは全く違う景色と呆然と立ちすくむ人々。圓應寺境内には、ムシロが敷かれただけの墓地の一角に、真っ黒に焦げたご遺体がズラリとならび、そのうちの24体は小学校児童であったそうです。
犠牲になられた方の中で、引き取り手の無かったご遺体は圓應寺の境内で荼毘に付され、後に無縁仏地蔵尊に納められ供養されました。
奇跡的に残った弁財天堂には、空海作弁財天と最澄作大黒天が残され、水の神弁財天のお力か、槇の木(中国では槇の木は昇竜をあらわすという)に水神の龍が宿ったのか、弁財天のご加護によりこのお籠り堂が戦後、
寺庭と35世の雨風をしのぐ、生活の場となったのです。
昭和54年に、福岡藩士で「黒田節」の作詞者国学者の二川相近のご子孫を中心に、圓應寺檀信徒が寄付寄進をして現在の伽藍を建立することができ、翌年には墓石のなかった照福院殿光姫君の墓石を建立することが
できたのでした。