昭和通りに面した圓應寺は、そのむかしは北の海辺(博多湾)近くまでが寺の地所であったといわれるほどの広大な大寺で、いわゆる殿様寺として屈指の威容を誇る名刹として知られていましたが、
昭和二十年六月十九日の福岡大空襲で本堂をはじめとする伽藍や堂宇すべての諸堂が灰燼と化してしまいました。
残されたものはわずかに、辯財天のお籠り堂と防空壕に避難させておいた過去帳だけだったのです。
慶長五年(1600)九月、黒田如水・長政父子の関ヶ原の合戦の軍功によって、黒田家は豊前中津十二万五〇〇〇石から一挙に筑前五十二万三〇〇〇石の太守にのしあがりました。
その後、父・黒田如水ら一族とともに筑前名島城に入城しました。そして福岡城を築城し黒田長政が初代当主を務めました。
翌年、息子長政が治める福岡城と次男熊之助が亡くなった玄界灘がよく見渡せる場所、大手門に浄土宗信仰の厚い黒田如水の夫人・光姫(照福院殿)は自ら一寺を開基して、黒田家の菩提寺としました。
これが「顕光山圓應寺」すなわち圓應寺のはじまりです。
開基をした光姫は才徳兼備を謳われ明るく誰からも愛された女性で、黒田家中はもとより藩民からも慕われたと伝えられています。多くの武将が側室を持つなか、官兵衛は生涯ただひとり光姫と添い遂げました。
そんなところからも光姫がいかに愛されていたかが伺えます。
寛永四年(1627)八月二六日、照福院殿は福岡城内で死去(享年七五歳)しました。法名は「照福院殿然誉浩栄大尼公」。
福岡圓應寺は、山号に「照福山」を追号し、正式に「照福山顕光院圓應寺」と称するようになりました。福岡の行く末を見守り照らすという、黒田藩祖・如水夫人の願いがこめられています。
照福院殿が亡くなる前年、二代目藩主・忠之公は照福院殿(忠之の祖母)の進言により那珂郡住吉村の一〇〇石を寺産として、圓應寺三世・専譽上人に寄進しました。
また、照福院殿没後の寛文七年(1667)、圓應寺六世・天譽玉産上人のとき、寺の仏殿と本堂を再興し、三代藩主・光之公に願い出て寺の後、海辺地の寄進を受け埋め立てました。
宝永三年(1706)九月には、四代藩主・綱政公よりは圓應寺判物を下賜され、六代藩主・継高公在世時には早良郡七隈村の山林二万二千坪を拝領されました。
さらに、一〇代藩主・斉清公在世時にも、寺の敷地領域を海中に広げることを許されています。歴代の黒田家藩主たちが圓應寺建立の想いを継いでこられた、深い縁を感じさせてくれます。
江戸後期ごろの圓應寺は「この寺、方丈、庫裏、食堂も備わり、寺境広し」(福岡区地誌)とあり、黒田家との由緒をもった寺院の風格を備えていることがうかがえます。
現在、圓應寺には照福院殿の墓碑があります。山門には、黒田家の家紋・藤巴紋が施されており、時空を超えて、福岡を見守る息づかいが今も聞こえてくるようです。
翼を広げて立つ舞鶴城の名で知られる福岡城。その福岡城のお膝元にあり、まさに圓應寺は、福岡の歴史を紡いできた寺といえるかもしれません。